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2014/10/23

「新潟フォトウォーク #22 新潟沼垂」でなつかしい沼垂を歩く (1)蒲原神社

Nfw_pamphlet_2新潟市で開催された新潟ソーシャルメディアクラブ(NSMC)主催「新潟フォトウォーク #22 新潟沼垂」に参加してきました。

子どもの頃住んでいたエリアで、最近「醸造のまち」などで再度注目されてきている沼垂(ぬったり)での開催ということで、フォトウォークに初参加した次第です。

信濃川をはさんで新潟市の中心部「新潟島」と対面にあるのが「沼垂」エリア。
このあたりはかつて「沼垂町」という独立した自治体で、100年前に新潟市と合併しました。今年はその100周年ということでいろいろイベントがあったようです。

新潟市・沼垂町合併100周年記念事業(新潟市ホームページ)


明治19(1886)年、信濃川に萬代橋が架けられたこともあり、20年には沼垂町の主だった人たちが新潟市との合併を再三にわたり県に願い出ていました。
しかし、新潟と沼垂は、江戸時代の湊をめぐる度重なる訴訟や、明治以降も続いた漁場をめぐる争いなどのため、一般の人々の間には反目が残っていました。
さらに、明治29(1896)年から30年には、北越鉄道の終着駅の位置をめぐって新潟市と沼垂町は争い、鉄道施設の爆破事件まで起き、合併は容易に実現できない状況でした。
 明治41(1908)年に沼垂町で大火があり、新潟市の消防ポンプが萬代橋を渡り活躍した。このことがきっかけとなって、合併問題が議論されるようになりました。
 その後、県知事の積極的な調整もあり、大正3(1914)年4月1日に新潟市と沼垂町は合併しました。

フォトウォークの集合場所であるほんぽーとこと新潟市立中央図書館は、私の出身校である長嶺小学校の跡地に建てられました。
(長嶺小学校は2001年に万代小学校と合併し、万代長嶺小学校として今に至っています。)

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入り口の案内板にロシア語があるのが、新潟らしさを感じます。(新潟の標識は日本語・英語・中国語・ハングル・ロシア語と五ヶ国語で表記されているところが多いです)

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幹事のささきとしさん作成のパンフレットを手に、出発です。

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小学校のすぐ裏手が、これまた私が通っていた蒲原幼稚園。まだあってよかった。

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そこから栗の木バイパスに出て、右に曲がって少し歩くと蒲原神社の鳥居。(途中には趣のある梅干し屋さんがあったのですが、逆光がきつくて写真がうまく撮れませんでした)

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こちらの案内板を読んで、実は「蒲原神社」という名前ではなかった、という衝撃の事実が明らかに。ずっと住んでたのに、身近なことは意外とちゃんとした歴史を知らないものですね。まあそもそも神社の歴史に興味がなかった、とも言えますが。

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宮司の金子隆弘さんが書かれた「蒲原まつりについて」という文に、その歴史がありました。

蒲原神社は「大化の改新」に書かれた日本最古の書物「延喜式」の中の「神名帳」に『越後国蒲原郡総鎮守「青海神社」』として記されています。 「青海神社」は創設以来、蒲原の津、蒲原金鉢山に鎮座し、鎌倉時代まで繁栄していました。南北朝時代に入り、南朝方(勤王方)が蒲原の津を根拠地と定め、金鉢山に蒲原津城を築城したので当神社も否応なく南北戦争に巻き込まれてまいりました。その結果、北朝方の勝利をもって和議が成立し、当神社も負け組となり、廃城処分にされ、社殿焼却はまぬがれたもの「青海神社」の社名も名のられず、五行の神様を祭っていたことから「五行神社」と名のり細々と潜居していました。 (中略) 江戸時代に入り、新発田藩溝口氏第2代時世、寛永10年(1633)頃、信濃川と阿賀野川の合流したたのを契機に、信濃川東岸地区が急激に欠けし始め、国土が次々に水没してゆきついには金鉢山も水中に姿を没してしまい、神社は、山ノ下下大山の地に避難し「仮遷宮」していた。住民も周辺の村や町に四散していたが、元禄2年(1689)藩主の指示により、長嶺新田栗の木川右岸の地に「五社神社」の建設を命じ、又四散していた住民の新蒲原への復興を奨励し、翌3年(1690)社殿完成し、蒲原、横越島総鎮守として盛大な遷宮式をとり行い、溝口藩主の保護により又々、復活することが出来たのでした。その後、明治に入り子供の火遊びから社殿を焼失、現在の社殿となり、昭和43年には「蒲原まつり」の俗称が有名になったため「五社神社」から「蒲原神社」へと社名が変わり現在に至っています。

「大化の改新」「延喜式」ってどこまで本当なんだろう、と心中いろいろつっこみつつ、要は「蒲原まつり」の名前の方が本当の名前「五社神社」より通りがいいので、そちらに合わせてしまったということのようです。そんなこともあるんですね。

境内に入って少し歩くと、右手に大きな樹がありました。しめ縄をかけられているので、どうやらご神木のよう。

宮司さん自筆(?)の味わいある説明書きがありました。こういうもので「私」とか書いてあるのも珍しいですね。

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たしかに立派な樹です。

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神殿の下の通路に、蒲原まつりの時の写真が貼ってありました。上の写真はおそらく「蒲原まつりについて」にある写真と同じものですね。

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本殿の奥に行くと、別の神社が。「なかみね」と読むのでしょうか。もしかしたら地名「長嶺町」のもとになってるのかもしれません。

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新潟市の史跡のボードもありました。最近はこうやって整備しているんですね。

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蒲原まつり以外で来ることはほとんどなかったので、なかなか新鮮な経験でした。
こんな感じで、ただの神社なのですが他の皆さんも妙に楽しんで、思ったより長く滞在して写真を撮っておりました。

このあとは、9月にオープンした峰村醸造直売店古町糀製造所蔵座敷店に向かいます。蒲原神社から栗の木バイパス沿いに歩いて5分ほどです。

(続く)

参考リンク:
川がつくった新潟-その2「動く島と閉じる川」(新潟文化物語)

現在の新潟市は、律令国家が整備された8世紀には既に湊として利用されていました。当時は「蒲原の津」と呼ばれていたようですが、信濃川と阿賀野川の河口付近は巨大な入り江があり、今とはずいぶん地形が違います。

 「新潟」という地名が登場するのは戦国時代で、現在は同じ新潟市になっている信濃川右岸の沼垂は、新潟よりはるかに古い歴史を持っています。新潟と沼垂は、今でこそ信濃川を挟んで目と鼻の先にありますが、かつての信濃川は、天候によっては対岸が見えないほど川幅が広く、新潟は長岡藩、沼垂は新発田藩の領地でした。そして二つの湊とそこで働く町の人々は、江戸時代を通じて常に競い合ってきました。これまで分かっているだけで、沼垂は4回、新潟は1回、町ごとそっくり移転しています。当時は河口付近で合流していた信濃川と阿賀野川が、大量の土砂を運びたびたび地形が変わったためです。湊の仕事で成り立っていた新潟と沼垂は、砂がたまって川が遠くなると町ごと川のそばへ移転し、川が流れを変えて町を押し流すと安全なところへ町を移すという歴史を重ねてきました。

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