Days after 3.11
3月11日の14時46分に東北関東大震災が発生してから2週間以上の時間が過ぎた。
もう、何から書いたらいいのかわからないままに日々が過ぎていく。
ただひとつ、間違いなく言えるのは、震災前と震災後では、生きる世界が違ってしまったということ。
地震発生時は、私は大阪出張中だった。
大阪のビルはみしみしいって揺れて揺れて、あまりの長い揺れに初めて地震で「恐怖」を感じた。震源が宮城県沖でM7.9という数字を見た時、東京はどのくらい揺れたんだろうと思ったら鉄道ストップで帰宅難民続出の報。東海道新幹線も東京方面は復旧見込なしとのことだったので、早々に携帯から予約変更をし、延泊を決めて翌日昼に東京に帰京することに。
ホテルの部屋のTVで津波の様子などを見て、激しくショックを受ける。ただごとじゃないと戦慄。
翌日新大阪駅では切符を買う人でごったがえしてみどりの窓口は長蛇の列。EX-IDだったので発券の必要はなく、助かった。万が一止まった時のことを想定して、水、お茶、食事を用意して乗り込み、トイレは早めに済ませた。東京に着いた時は幸運にもJRがかなり復旧していたので、スムーズに帰れたのは何よりだった。自宅も被害はなく、購入する時に耐震についてさんざんレクチャーされたことが事実だったのだと実際の地震で実感することに。
月曜は福岡に研修講師のため出張しようとして羽田に向かい、途中で研修キャンセルが決まって引き返してそのまま自宅待機。それまでの疲れがどっと出たのか、翌日は体調不良でお休みをいただいてこれまた自宅。
そうして過ごしている間にも、世の中で起きていることの規模がこれまでの災害と桁違いで、ただただ圧倒されていく。
地震だけでも大変なのに、大津波、そして原発事故。都心は帰宅難民続出。続く余震。
戦後初の計画停電に電車の運休。駅に入るのにも長蛇の列。出勤しても帰れないかもしれないという事態。
水道水から基準を上回る放射性物質が一瞬検出され、水への恐怖にミネラルウォーターの買いだめ。
物資不足が懸念される途端にトイレットペーパー、紙おむつ、米、カップ麺、菓子パンが売り切れ、コンビニの棚がすっからかんに。
宮城、岩手、福島の沿岸部を中心に、東北全域と千葉県まで含む超広域への甚大な被害。25日12時現在、死者は12都道県で計1万35人、行方不明者は6県で1万7443人、負傷者は18都道県で2777人。避難所で生活する人は16都県で24万人以上に上っている。
救援のために自衛隊員が10万人派遣され、他に諸外国も含め物資、救命等あらゆる援助がなされる。
CNN、BBC等海外メディアでも延々と「Japan Tsunami」「Fukushima Nuclear」を流し続ける。新聞も雑誌もこぞって取り上げる。
これはどこの筒井康隆の小説ワールドなんだろう、と思うくらい非現実的な光景が次から次へと現実になっていく。
情報源として主に使っていたツイッターはすごいスピードで情報を流し続け、あれよあれよと言う間にデマも交えながら情報が洪水のように流れ続ける。震災の時にも携帯は通じなくてもツイッターは使えて、出先で様子がわかり、非常に心強かった。あのトラフィックでよく落ちなかったと思う。
そんな日々に圧倒され、かつてない事態に世の中は未曾有のストレス状態になっている。
自分自身、どこかバランスが悪く、寛容度が低くなっているという自覚がある。
しかしこれはただ待てば去っていく災厄ではない。
被災地の復興は息の長い支援が必要だ。
そして原発問題も1ヶ月ほどで解決するようなものではなく、長丁場となることは間違いない。
つまり、この「不安定感」を持ったまま、私たちは過ごしていく覚悟を決めないといけないのだ。
とりとめなく書いたが、今はまずは、東京はそういう状況にあるのだということを記録しておく。
一見何も変わらない風景だけど、いろんなことが少しずつ違っている世界で私たちはこれから生きていく。
生きていく。
参考リンク:
※地震発生時からの主なニュース動画を見ることができます
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