1945年8月11日、新潟では「原爆疎開」があった
8月6日は広島、9日は長崎に原爆が投下された日です。
投下候補地は他に二都市あり、それは小倉と新潟だった、という話は、新潟市に住んでいた頃よく聞かされ、地元メディアでも夏になるとよく取り上げられていました。
ところが、最近ふと「新潟と原爆」ということでネットを検索していると、「長崎原爆投下後の8月11日に新潟市民は『原爆疎開』をしていた」ということが書いてある記事を見つけ、驚きました。生まれてからずっと新潟に住んでいながら、今まで知らなかったなんて。
最初に見たのは、新潟市議会議員・中山均さんのブログのこのエントリでした。
「 『広島・長崎』の日を前に、被爆60周年、あらためて新潟から」
(ナカヤマヒトシ通信:2005/08/05)
こちらには米軍の原爆投下指令書の抜粋のコピー画像が載せられ、「Niigata」の文字があることが確認できます。そして、新潟港が戦局が進むに連れて、日本海の軍港としての役割を持つようになり、しばしば米軍に機雷を投下され、米軍艦載機による銃爆撃などもされていたことを紹介された上で、全国で唯一実施された「原爆疎開」についてこのように書かれています。
そしてポツダム宣言が公表される前日の7月25日、ついに下された「原爆投下指令書」には、「1945年8月3日頃以降、広島・小倉・新潟・長崎のひとつに最初の特殊爆弾を投下せよ」とあり、新潟は投下目標地のひとつとして、はっきりと明記されることになりました(上記写真参照)。
この指令書に基づき、8月6日の広島に続いて9日には長崎へ原爆が投下されました。そしてこれら2つの爆弾が「新型爆弾」であることが明らかになり、全国は大混乱に陥りました(なお、これに先立ち、隣の長岡市で原爆模擬爆弾が投下され、やはり幼い命を含む犠牲があったとのことです。あらためて言及しておきたいと思います)。
その中で新潟県は職員を広島に派遣、この職員は現地へは入れなかったものの内務省に出向いて情報収集して帰ってきました。翌10日には県幹部の緊急会議が開催され、派遣された職員からの報告を受け、新潟がこの「新型爆弾」投下の候補地になっていること、内務省が新潟市民の疎開に反対である意向も報告され、深夜に及ぶ激論が闘わされました。
その結果、新潟県は政府の意向には逆らう形で、新潟市民に対して「徹底的かつ緊急の疎開」を決定し、そして新潟市もこの方針に基づき、翌11日、町内会長を集めて緊急会議を開催し、疎開は実行に移されたのです。
この時の混乱を、当時の日記から抜粋した記事がasahi.comの新潟版にありました。
「イフ(1) 新潟が戦場になったら」
(asahi.com:2005/01/01)
市の中心部では、10日深夜から避難が始まった。 市内の住職、蒲原霊英さん(故人)は11日に記した日記からは、混乱ぶりが伝わってくる。 「新型爆弾の出現により広島、長崎にて全滅説が伝わり市内より三里(約12キロ)外へ、退出命令のデマが出た。昨夜夜更けから退去者が多いため憲兵まで制止に出動したと」 公務員や生産・交通関係者までが避難を始め、県はさらに慌てたようだ。13日の地元紙で「緊急要員は残留せよ」と呼びかけ、さらには県労政課長は「自由行動は国家総動員法で処断されるから注意されよ」と脅しめいた談話まで残している。結果、混乱は収集されないまま、8月15日に終戦を迎えた。
こんな大事件をなぜ知らなかったのか、遠い昔に聞いたことはあったけど忘れてしまったのか。内容が内容だけに、聞いていたなら忘れるはずはないと思いたいのですが。
終戦から60年という月日が過ぎ、当時のことをリアルに語れる人は年々減ってきています。
あの時、どんなことがあったのかを地域単位で語り継いでつくことがますます重要になるでしょう。家庭で、知人同志で、地域のお年寄りから子どもたちへ。
爆撃の中を逃げまどい、炎の熱さと飛行機のエンジン音を生身で感じた人たち。自分の住んでいた家を焼かれ、家族を友人を失った、リアルな戦争の体験者から、映像の向こうでしか戦争を知らない世代へ、無理せず話せる範囲でかまわないので、少しでもその「現実」を伝えていただければ、と思います。
私自身、祖父母は皆他界していますが、父や義父は何とか戦争を記憶している世代ですので、今度会う時には話を聞いてみようかと。
「新潟と原爆」ということで余談をひとつ。
新潟にいた頃よく聞いていた「新潟市は原爆投下目標に加えられていたが、天候が悪くて中止になった」という話はいわゆる「都市伝説」だったことも、今回調べて判明。
「新潟市は原爆投下目標に加えられていたが、「天候が悪くて中止」というのは都市伝説」
(表参道・新潟館 N'ESPSAS 知っ得新潟情報)
こちらによると、
新潟市が原爆投下目標に加えられていたのは事実ですが、「天候が悪くて中止した」のは新潟ではなく小倉です。小倉への投下を断念したB29は、その足で予備の投下目標だった長崎に原爆を投下しました。新潟市は当初、広島、小倉、長崎に加えて投下目標とされましたが、その後目標から除外されています。サイパンから遠かったこと、都市の規模が小さかったことなどの説があります。
とのことでした。
どこでどう間違ったのかわかりませんが、私たちはすっかり信じ込んでました。やはり、事実は正しく伝えないといけませんね。いやはや。
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コメント
まさか、久留米にも空襲が来ていたとは、知りませんでした。
初めて知ったのは、学校で知りました。
投稿: 御船梓 | 2007/11/08 14:01
>御船梓さん
久留米のことは私の記事には書いていなかったような気がするのですが、、、
いずれにしろ、戦争で何があったか、語り継いでいかなくてはならないと思います。
投稿: くりおね | 2007/11/12 00:28
ちょっと恐いお話
マンハッタン計画に関する新事実:
実は、この計画で合計4発の原爆が1945年夏に製造された。最初の1発は7
月にニューメキシコの砂漠で実験に使われた。次の2発は8月初めに広島と長崎
に投下された。最後の1発は、8月末に使用が予定されていたが、日本が8月1
5日にとうとう降服したので、結局使用されなかった。第3の被曝予定地は一体
どこだったのだろうか? なんと小倉と新潟がこの候補地にあがっていた。
もし降服が2週間遅れていたら。。。
The Manhattan Project produced four atomic bombs. One was tested July 16,
1945, at a bombing range site known as Trinity near Alamogordo, New Mexico.
Two others were dropped on the Japanese cities of Hiroshima and Nagasaki
on August 6 and 9, 1945. A fourth was ready for use in late August, but by
then Japan had surrendered and World War II had ended.
http://encarta.msn.com/encnet/refpages/RefArticle.aspx?refid=701610456
投稿: 丸田 浩 | 2008/02/05 08:02
>丸田 浩さん
情報ありがとうございました。
投稿: くりおね | 2008/02/07 22:55