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2005/07/14

お別れは、ゆっくりと

週刊!木村剛」で、木村剛さんのお父さまが亡くなられたことを知りました。
72歳という若さで生涯を終えられたと書いてあり、年代の近い親を持つ私も少なからずショックでした。
心より故人のご冥福をお祈り申し上げます。

「スーパー頑固親父」のお父さまだったようなことが、以前の記事で書かれていた記憶があります。確か「鉄拳制裁当たり前」だったとか。
そういう方だと、父と息子という立場で、いろいろとぶつかることも多かったのではないかと想像します。でも最後は「太く短く、真っ直ぐに」というお父さまの生き方をご自身もモットーとされているところに、親子のつながりの一端をかいま見たような気がしました。
また、木村さんはマスコミに登場する頻度が高く、ひどいバッシングを受けたりすることもあったので、もしかしたらそのたびにお父さまも心配されたり、心中ひそかに応援されたりしていたのかな、とも想像します。
木村さんご自身、今は「大きな不在」と直面していらっしゃる時なのかもしれません。

私自身は身近な身内の死に直面する機会がなかったのですが、大人になって唯一出席した親族のお葬式が、夫の祖父のお葬式でした。
もうずっと入院していたし、95歳という大往生と言える年齢だったので、集まった人たちも涙に暮れると言うよりは、故人の思い出話に花を咲かせて、お通夜の席はめったに集まらない親戚の交流場となっているような印象が正直ありました。
ところが、告別式も進み、いよいよお棺に釘を打って出棺する時。となりにいた夫がぼろぼろと泣きだし、霊柩車が去るまで涙が止まらないのです。それは他の孫たちもほぼ同じでした。
夫の祖父は、夫が子どもの頃地元で居酒屋をやっていて、両親働いている孫たちが学校から帰ると集まり、食事をとったりみんなで遊んだりして過ごしていたということを聞かされていました。そういう時間を一緒に過ごしたおじいさんと完全に別れてしまうと実感した時、夫の中で何かがはじけて、こらえられなくなったようです。

そうやってお通夜から告別式、火葬と順番に過ごしていく内に、喪の儀式というのは残された人たちのためにあるんだなあ、と強く思いました。
それまで私はお葬式の意味がいまひとつわからず、本人が望まないならやる必要はないのでは、くらいに考えていたのですが、実際一人の人の死に遭遇してみて、そういうことではないのだと遅まきながら実感したのです。
昨日までそこにいた人が完全にいなくなってしまうということは、あまりにも大きなことなので、ひとつずつ段階を踏んでお別れをしていくことが必要なのだ、と。

木村さんはまたビジネスの世界に戻って切ったはったをやる立場になるのでしょうけど、心の中の「喪の時間」はゆっくりひっそり取っていただけたら、と願っています。

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