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2004/06/29

腕のない絵を描く子供たち

今週発売のPRESIDENT(2004.7.19号)に、「芥川賞作家が見た『幼稚園児の異変』」という記事が載っている。
この内容が実にショッキングだった。

ある幼児が描いた自画像に、腕も足もなかった。
川の絵を描かせると、四角い水色の川を描いた。
これはいわゆる「お受験」のための幼児教室でのひとこまらしいが、こういう幼児が増えているという。しかも都市部だけではなく、地域差は感じられない、言わば全国区の問題らしい。

また、別の幼児体育教室では、「走れない子供」が増えていると言うのだ。
「『走って!』と言うと、ベタ足でただバタバタ速く歩いているだけの子が出てきた。走れないんです」とはその教室の指導員の話。

これらは何を意味するのか。
この記事の中だけではもちろん結論は出ないが、子供たちが屋外遊戯をしなくなった今、テレビ・ゲームなどの視覚偏重の生活の中で、ものを抽象化し、概念化する力が育っていないのではないか、という推論がされている。
概念化ができないから、興味を持ちとらえた部分のみ即物的に集中して絵にする。興味のない部分は意識に登らないので、顔と胴体は入念に描かれて腕と足のない絵が出来上がる。「人間」という全体の概念がないからだ。
また鬼ごっこやかくれんぼ、だるまさんがころんだ、ゴム飛びなどの屋外遊びを集団でしなくなったことで失った身体感覚。大勢で同時に走り出すと、誰かとぶつかってしまう。相手の動きを見たり、かわしたりすることができない。

この筆者は、顔と胴体だけの絵を見たときに佐世保の事件を思い出したと言う。
そういう観点からとらえたことはなかったので、新鮮だった。
主に発達心理学的な観点から、一体なぜなのような行動を取ったのか、ということをぐるぐると考えていたからだ。もちろん結論などは出るはずもないが、何らかの理由で自分を大切な存在だと実感することがなかったから他者を大切にすることも実感できなかったのではないのか、などとぼんやりと思っていた。

木村剛氏がゴーログ「ネット・コミュニケーションとイエローストーン国立公園の悲劇」で

常に大人が介在する「擬似社交場」で育てられた子供たちは、「残酷」という体験を十二分に心の中で消化することなく、「子供らしさ」を演じているのかもしれない。

と書いているが、まさしく、上記の幼児体育教室は、走り回ったり鬼ごっこをしたり、というのを、体育館の2Fで両親が見守りながら行っているのだ。近所の公園で擦り傷を作りながら、時にはよその家の軒先をばたばたと通りすぎておっかないオジジ・オババに怒られるという、そんな外遊びとは次元の違うものだろう。

この情報化社会では、親や教師たちの経験則だけではもう、生命力を持った子供を育てるのは難しい、ということなのか?とつい極端な、悲観的な考えにかられてしまう。
昔読んだ竹宮恵子の「地球(テラ)へ・・・」というマンガで、子供はすべて自然分娩を排して人工授精で生まれ、その子供たちはプロの養父と養母が成人になるまで育てる専用の都市「アタラクシア」(「心の平安」の意)で純粋培養される、という設定があった。
それがあながち絵空事と思えなくなってくる、そんな記事だった。

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